マイケル・サンデル

カントは次のように論じる。動物と同じように快楽を求め、苦痛を避けようとしているときの人間は、本当の意味では自由に行動していない。生理的欲求と欲望の奴隷として行動しているだけだ。欲望を満たそうとしているときの行動はすべて、外部から与えられたものを目的としている。この道を行くのは空腹を満たすため、あの道を行くのは渇きを癒やすためだ。

人間の行動を決めるのは先天的な性質か後天的な性質かは、よく議論されるテーマだ。スプライト(もしくはほかの砂糖入り飲料)が飲みたいという気持ちは、遺伝子に刻まれているのだろうか、それとも広告によって誘発されたのだろうか。カントによれば、このような議論は的外れだ。生物学的に決定されていようと、社会的に条件づけされていようと、そのような行動は完全には自由とはいえない。カントの考える自由な行動とは、自律的に行動することだ。自律的な行動とは、自然の命令や社会的な因習ではなく、自分が定めた法則に従って行動することである。

あることをするのは別の目的であり、その目的を実行するのはまた違う目的のためといったように延々と続いていく。他律的に行動するというのは、誰かが定めた目的のために行動することだ。そのとき、われわれは目的を定める者ではなく、目的を達成するための道具にすぎない。
この対極にあるのがカントの自律の概念だ。自分が定めた法則に従って自律的に行動するとき、われわれはその行動のために、その行動自体を究極の目的として行動している。われわれはもはや、誰かが定めた目的を達成するための道具ではない。自律的に行動する能力こそ、人間に特別の尊厳を与えているものだ。この能力が人格と物を隔てているのである。
カントにとって、人間の尊厳を尊重するのは、人格そのものを究極目的として扱うことだ。だから功利主義のように、全体の福祉のために人間を利用するのは誤りなのである。路面電車を止めるために太った男を路線に突き落とすのは、彼を手段として利用することであり、彼を究極の目的として尊重しているとは言えない。

『これからの「正義」の話をしよう』(p142-145)

 

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