埴谷雄高

文学は、表面どういうかたちをとるにせよ、すべて自分の内面にかかわるのが鉄則でありますけれども、『死の家の記録』で描いたごとくに外面から見てゆくのと違って、いきなり内面を覗くという手法をとったこの作品は、そのモノローグのすべてを「苦痛は快楽だ」という逆転したテーゼの適用と展開をもっておし通したところに際だった特色があります。
この地下生活者の提出している「逆転したテーゼ」、アンチテーゼというにはあまりに巨大で、どっしりしていてとうていジンテーゼへ向いそうもないこの「逆転したテーゼ」を列記すると、こういうふうになります。

一、意識しすぎることは病気である。ただにその過剰ばかりでなく、意識そのものがすでに病気である。
二、そんなことをしてはいけないと意識するとき、私達は反対に醜悪な行動をする。美しいもの、高きものを意識するとき、私達は醜悪な行動をとる。
三、私達は、しばしば、自分の利益でない行動をとる。自分の利益でなく、不利を敢えて願うことがある。理性、名誉、安泰、平和にそむいて、あるときはそうでなければおさまらないのである。
四、私達は、なんといっても、破壊や混乱を熱愛しているのだ。
五、歯痛や呻きは快楽である。一般的にいって、苦痛は快楽である。そして、後悔、屈辱の意識も快楽であり、絶望もまた快楽である。
六、システムや抽象的な結論にこだわると、私達は自分の理論を生かすために、ともすればわざわざ真実をゆがめ、見えても見ず、聞こえても聞かずということになりがちである。
七、法則、自然科学、数学は二二が四であるが、私達は二二が五を欲する。意識は最大の不幸だが、それを人間は愛し、何物ともとりかえないのであり、その意識こそ、二二が四の石の壁より高度なものなのだ。

等々。
この『地下生活者の手記』は当時ロシアのインテリゲンチャによく読まれたチェルヌイシェフスキイの『何をなすべきか』への反駁を含んでいて、水晶宮より鶏小屋を選ぶという逆説を述べているのですけれども、ここには時代への反駁以上のものがまぎれもなくあります。ドストエフスキイ自身は、兄ミハイルへの手紙のなかで、この地下生活者の瀆神的な言葉は、ひたすら「見せかけのため」に述べられたものだと書いていますが、「苦痛は快楽である」という逆転したテーゼにまでドストエフスキイが達したことは、驚くべき力を内包した「見せかけ」といわねばなりません。

『ドストエフスキイ その生涯と作品』(p.85-86)

 

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