國分功一郎

たとえば、フロイトは、我々が紹介したこの文章の中で、対話者に精神分析を説明するにあたり、精神分析理論がもたらす、自己の中の他者という考えを強調していた。「自分の自己はひとつだといつも思っていたのに、何だか、もう、ひとつではないような気がする、まるで自分の自己に逆らいかねない何か別のものがもうひとつ自分の中にあるような感じがする〔…〕」。いかなる形で精神分析に従事するにせよ、精神分析に従事する者は、このような認識を避けて通ることができない。

 

たとえば、これは、日常生活でよく耳にする「自分のことは自分が一番よく分かっている」という一言の基礎を完全に覆すものである。精神分析を読解する者、精神分析に従事する者は、このような一言が全く意味をなさないという認識のもとに自らの生を生きねばならなくなる。たとえば、その時、我々は他人に対して責任というものを、どう問うことができるだろうか。そしてまた、「自分の自己に逆らいかねない何か別のもの」が何か事を為したと感じる時、我々は「自分」の責任をどう考えることができるだろうか。精神分析は「危険」である。それは我々に根本的な態度変更を迫る。今挙げた例はそのひとつに過ぎない。おそらく、精神分析をおもしろがるとは、このような態度変更が迫られているという事態に気がつかないこと、あるいは、それを無視することである。

 【再掲】素人による精神分析読解の問題(『フロイト全集 月報』)

太字引用者

 

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