2015-08-01から1ヶ月間の記事一覧

ランボー

前世紀には俺は誰だったか。今在る俺が見えるだけだ。もはや放浪もなくなった。当てどのない戦もなくなった。劣等人種はすべてを覆った、――所謂民衆を、理性を、国家を、科学を。そら、科学だ。どいつもこいつも又飛び附いた。肉体の為にも魂の為にも、――臨…

ダニエル・カーネマン

ある言明の理解は、必ず信じようとするところから始まる。もしその言明が真実なら何を意味するのかを、まず知ろうとする。そこで初めて、あなたは信じない*1かどうかを決められるようになる。信じようとする最初の試みはシステム1の自動作動によるものであ…

埴谷雄高・池田晶子

埴谷 ぼくは『存在と非在とのっぺらぼう』というエッセイを書きましたが、その書出しは、こうです。〈「思うという言葉によって、私は、すべて直接われわれ自身によって感知せられるという仕方でわれわれにおこるものの一切を意味する。理解する、欲する、想…

内田樹

「責任を取る」ことなど誰にもできない まことに逆説的なことですが、私たちが「責任」という言葉を口にするのは、「責任を取る」ことを求められるような事態に決して陥ってはならないという予防的な文脈においてだということです。それ以外に「責任」という…

玄侑宗久

「遊」のもう一つの大きな要素として、「用」を離れるということがあります。いわゆる「無用の用」ですね。これをテーマとするような話が『荘子』にはいくつもあるのですが、まず紹介したいのは、逍遥游篇の瓢(ひさご)や樗(おうち)の木の話です。荘子の…

シオラン

生まれ出ることによって、私たちは死ぬことで失うのと同じだけのものを失った。すなわち、一切を。 『生誕の災厄』 参照:https://twitter.com/Cioran_Jp/status/630691962870312960

埴谷雄高

(…)出現と未出現の両方共にわたるのが「虚体」です。だから非常に範囲が広いけれど、未出現の方が多い。なぜかというと、これは『死霊』の特徴ですけど、やはり存在することはいやなんですね。「自同律の不快」なんです。存在することがいやなのに、無理や…

永井均

死を生の対立概念と考えるのは実はまちがいで、ほんとうは生まれてこないということこそが生の対立概念なのではないか。 『<子ども>のための哲学』

シレノス

最善のことは生まれてこないこと、次善のことはまもなく死ぬことだ。 参照:http://1000ya.isis.ne.jp/1164.html

ユクスキュル

ハイデルベルクの森を散策していて、一本の美事(みごと)なブナの木に出会ったことがあった。わたしはその前に呆然(ぼうぜん)と立ち尽くした。すると突然、ひとつの認識が湧き上がったのである。これは一本のブナではない。僕のブナだ、と。僕がこの僕の…

柳父章

(…)「天」は、日本語の意味を生かしつつ、まずGodの翻訳語として使われた。他方、natureの翻訳語としても「天」は「天性」、「天地」という形で、あるいは「天」としても使われている。すなわち、この時代に一つの「天」ということばが、Godの翻訳語であり…

臨済

道流、大丈夫児は今日方(まさ)に知る、本来無事なることを。祇(た)だ汝が信不及なるが為に、念念馳求して、頭を捨てて頭を覓(もと)め、自ら歇(や)むこと能わず。円頓(えんどん)の菩薩の如きは、法界に入って身を現じ、浄土の中に向いて凡を厭い聖を忻(ねが)…