埴谷雄高

(…)出現と未出現の両方共にわたるのが「虚体」です。だから非常に範囲が広いけれど、未出現の方が多い。なぜかというと、これは『死霊』の特徴ですけど、やはり存在することはいやなんですね。「自同律の不快」なんです。存在することがいやなのに、無理やり出現させられたものだけが宇宙になった。自分で自己判断できる者は宇宙にならなかった。
そして出現させられた我々の宇宙は、「自同律の不快」を追う重力をもった世界ということになり、あらゆる隕石が落ちてくる。そうして大きな谷ができた。イエス・キリストも知らなかったけど、新約聖書に出てくる悲哀の他にというのは、本当はクレーターなんです。月も木星もイオも地球も、クレーターをもってるところは、悲哀のこきょうともいうべきかな、あらゆる絶望と悲哀が集まってる。隕石が運んできた生の因子が海に落っこちて、やっとのことで残った物だけが、悲哀の念にかられながら遺伝子を伝えてきた。クレーターの底から発生したから、人間は喜びより絶望の方が文学的に感銘度が高い。われわれの芸術は、最大の喜び、最大の愉悦は最大の苦悩を通じて到達できるという方程式を生んでしまった。アリストファネスの喜劇よりソフォクレスの悲劇の方が偉いと、人が思うようになったのは、一番初めに原因がある。だから悲哀の他にということは、抽象語でなくてわれわれの本来の遺伝子の中に組み込まれていた言葉であるということですね。もっとも、これは僕の妄想科学ですけど。

『生命・宇宙・人類』

 

参照:http://blogs.yahoo.co.jp/honnnotabi/9453372.html

関連:http://hideasasu.hatenablog.com/entry/20070111/1168477120