小田嶋隆

この種のいわゆる「自己責任論」への違和感については、2013年の6月に当欄に書いたテキストの後半部分で、既に述べている。

この中で、私は、「人命救助が市場原理で評価されている」点について、違和感を表明しているわけだが、より根本的には、私が以前から抱いている違和感は、「人命」や「基本的人権」のような、民主主義社会の根幹を支えていることになっているかけがえのない「建前」に対して、あけすけな「本音」(←「死ねよ」とか「税金の無駄だろw」とか「ざまあ」とか)がぶつけられている現状に向けられたものだ。

このこと(露悪的な「本音」の増殖)は、インターネットが普及して、人々が大量の「他人の本音」に触れる機会を持ったことと無縁ではない。

(…)ネット社会の出現によって、そうした露悪的で扇情的な「本音」が万人に向けて公開される場が確保されてみると、それらの膨大な量の「本音」は、「これまでおもてだって語られていなかっただけで、本当は誰もが心のうちにあたためていた言葉」であることを認められ、匿名のネット市民の間の共有財産として、無視できない影響力を発揮するようになる。かくして、「本音」は、「いけ好かない偽善者どもの眉をひそめさせる痛快至極な真実」として、確固たる市民権を獲得するに至る。

なさけない展開ではある。
が、好むと好まざるとにかかわらず、世界は本音化し、われわれは、露悪化しつつある。

 他人の勇気は「自己責任」

 関連:http://hideasasu.hatenablog.com/entry/2013/08/18/143809