玄侑宗久

「遊」のもう一つの大きな要素として、「用」を離れるということがあります。いわゆる「無用の用」ですね。これをテーマとするような話が『荘子』にはいくつもあるのですが、まず紹介したいのは、逍遥游篇の瓢(ひさご)や樗(おうち)の木の話です。
荘子の論敵であった恵施が魏王から種をもらって瓢箪を育てたところ、なんと五石も入るほどの巨大な実がなり、飲み物を飲もうとしても重くて持ち上がらず、二つに割って柄杓(ひしゃく)にしようとしたら浅くて汲めない。大きいばかりで何の役にも立たないので、捨ててしまったと言います。
荘子は「まったく君は大きなものが使いこなせない奴だな」と嘆き、あれこれ言ってから「大きな川や湖にでも浮かべて、その瓢で舟遊びでもすればいいじゃないか」と皮肉な提言をします。
恵施は、家には樗の木もあると荘子に言いました。これも巨大で、瘤(こぶ)だらけの幹には墨縄も当てられず、小枝も曲がりくねって指矩(さしがね)が当てられない。要するに大工さんが使う建材にはならないわけですが、それは恵施荘子の物言いを批判するための喩えでもありました。つまり荘子の話は、樗のように巨大なばかりでとりとめがなく、役に立たないではないかというのです。
それに対して荘子は、山猫や鼬(いたち)や巨大な牛をもちだして返答します。山猫や鼬はネズミを獲るが、その能力のために罠にかかって死ぬことも多い。しかし巨大な牛は、ネズミは獲らないが罠にもかからない。役に立たないからこそ長生きできるのだ。だから、巨大で長生きの樗の木も、その下で昼寝でもすればいいだろう、と嘯いたのです。
これは、『老子』の第二十三章にある「曲なれば則ち全し」を敷衍した物語と考えられます。曲がりくねった木は役立たずであればこそ寿命を全うできる。荘子もこの立場に立ち、どうして君はそういう近視眼的な「用」しか考えられないのか、と批判しているのです。

『荘子』(p.57-59)

参考:http://esdiscovery.jp/knowledge/classic/china3/soshi005.html