悟り

松尾豊

人間の認知は予測可能性を上げるためにできていると思います。そのために世界を分節し、モデル化します。悟りとの関連性ですが、おそらく、人工知能の技術が進み、世界の予測性を上げようとする過程で、自己と他者を区別したほうがよくなる段階が来るかもし…

岡潔

のどかというものは、これが平和の内容だろうと思いますが、自他の別なく、時間の観念がない状態でしょう。 小林秀雄・岡潔『人間の建設』(p.109)

ドミニク・チェン

シャナハンはJournal of Consciousness Studies誌に「シンギュラリティの前の悟り」(Satori before Singularity)という、短いが興味深い論文を寄稿している。そこでは汎用人工知能から導かれる超知能の特性として、post-reflectiveという形容詞が登場する。…

中村元

元来ブッダは仏教外の諸派の説を断または常の見解に堕するものとして排斥したのであるから、かりそめにも仏教徒たるものはけっして断滅と常住との偏見をもつことは立場上許されない。すなわちいかなる個人存在もまたいかなる事物も永久に存在する(常住)と…

埴谷雄高

――《俺は何か悟ったような気になったぜ。ぷふい! ところでそれは、俺が怖ろしい疑問を見出し得たと云うのみに過ぎないのではないか。》 『不合理ゆえに吾信ず』 関連:http://hideasasu.hatenablog.com/entry/2015/11/20/232510http://hideasasu.hatenablog…

小室直樹

こうして、終末論をふまえてキリスト教と仏教を比較してみると、とてつもないことに気づく。仏教では、衆生は天上、人間から、地獄に至るまで、六道をぐるぐるぐるぐる回っている。輪廻するというのは罪がある人に限って輪廻する。しかし大概の生き物は罪が…

ゴータマ・シッダールタ

1108 「世人は何によって束縛されているのですか? 世人をあれこれ行動させるものは何ですか? 何を断ずることによって安らぎ(ニルヴァーナ)があると言われるのですか?」 1109 「世人は歓喜に束縛されている。思わくが世人をあれこれ行動させるものである…

魚川祐司

偈(詩)の中でも彼の法は「貪欲に染まり、暗闇に覆われたものには見ることができない」と述べられているが、そのように盲目的に何かを欲望する傾向性をもつからこそ、人々は異性を求め、より豊かな暮らしを求める。そしてその希求が生殖と労働という人間の普…

永井均

「(…)争いごとにはなんでも勝ち負けっていうのがあるわけだけど、ここでねじれた関係が生まれることはよくあるんだ。たとえば争いごとを好む人と好まない人との間に生まれる、反目、敵対、つまり争いというのが考えられるね。これはいわば価値をめぐる争い…

僧璨

性に任ずれば道に合う、逍遥として悩を絶す、繋念は眞に乖く、昏沈は不好なり、不好なれば神を労す、何ぞ疎親することを用いん。一乗に趣かんと欲せば、六塵を惡むこと勿れ、六塵惡まざれば、還て正覚に同じ。 本来のことに任せてみれば道にかなうものである…

芥川龍之介

悉達多は六年の苦行の後、菩提樹下に正覚に達した。彼の成道の伝説は如何に物質の精神を支配するかを語るものである。彼はまず水浴している。それから乳糜を食している。最後に難陀婆羅と伝えられる牧牛の少女と話している。 「仏陀」/『侏儒の言葉』

パスカル

我意*1は、すべてのことを心のままになしえた場合にも、決して満足しないであろう。しかし、人は我意を投げ捨てたその瞬間から満足する。それがなくなれば、人は不満であることはできない。それがあると、人は満足していることはできない。 『パンセ』(断章…

ゴータマ・シッダールタ

734 およそ苦しみが生ずるのは、すべて識別作用に縁って起るのである。識別作用が消滅するならば、もはや苦しみが生起するということは有りえない。 735 「苦しみは識別作用に縁って起るのである」と、この禍いを知って、識別作用を静まらせたならば、修行者…

臨済

道流、大丈夫児は今日方(まさ)に知る、本来無事なることを。祇(た)だ汝が信不及なるが為に、念念馳求して、頭を捨てて頭を覓(もと)め、自ら歇(や)むこと能わず。円頓(えんどん)の菩薩の如きは、法界に入って身を現じ、浄土の中に向いて凡を厭い聖を忻(ねが)…

吉田兼好

また云はく、「されば、人、死を憎まば、生を愛すべし。存命の喜び、日々に楽しまざらんや。愚かなる人、この楽しびを忘れて、いたづがはしく外の楽しびを求め、この財(たから)を忘れて、危ふく他の財をむさぼるには、志、満つ事なし。生ける間、生を楽し…

道元

生死(しょうじ)の中に仏あれば生死なし。又云く、生死の中に仏なければ生死にまどわず。こゝろは、來山(かつさん)・定山(じょうざん)といはれしふたりの禅師のことばなり。得道の人のことばなれば、さだめてむなしくまうけじ。生死をはなれんとおもは…

ゴータマ・シッダールタ

己が悲嘆と愛執と憂いとを除け。己が楽しみを求める人は、己が(煩悩の)矢を抜くべし。 (煩悩の)矢を抜き去って、こだわることなく、心の安らぎを得たならば、あらゆる悲しみを超越して、悲しみなき者となり、安らぎに帰する。 『ブッダのことば』(p131)…

森三樹三郎

自然を人工に対立させ、人工を拒否して自然を固守するというのは、自然の道として初歩的な段階にすぎない。いわば機械を使って機械に使われないことこそ、真の道であるというのである。だが天地篇(引用者注:『荘子』)の作者のいいたいのは、機械のことだ…

レイモンド・スマリヤン

悟りの概念を理解しようという気のあるなら、すぐにとはいかないにせよ伝える自信はある。しかし、初めっから受け入れる気のない人間には何億年かけても、いかに多くの言葉を尽くしても伝わらないだろう。どんなに語ってもその人にとってわたしの言葉は川の…

池谷裕二

幸せとは何かを問えるのはヒトの才能だ。しかし人は幸せだろうか。常に会話を欲し、愛を欲し、金を欲し、欲情し、空気を吸う。そんなものに依存しない生物は多くいるし、むしろ煩悩フリーな彼らこそが地球を席巻している。幸せの価値さえ無意味化する大腸菌…

正岡子規

余は今迄禅宗の所謂悟りといふ事を誤解して居た。悟りといふ事は如何なる場合にも平気で死ぬる事かと思って居たのは間違ひで、悟りといふ事は如何なる場合にも平気で生きて居る事であった。 「病林六尺」