永井均

「(…)争いごとにはなんでも勝ち負けっていうのがあるわけだけど、ここでねじれた関係が生まれることはよくあるんだ。たとえば争いごとを好む人と好まない人との間に生まれる、反目、敵対、つまり争いというのが考えられるね。これはいわば価値をめぐる争いなんだな。だから、闘ってしまったら争いごとを好む人の勝ちだ。好まない人は、争わないということによってだけ勝てるんだけど、よく考えてみると、そういう争い、つまり闘うか闘わないかで勝ち負けが決まる争いも、争いの一種なんだから、争いを好まない人もすでに一段高い争いを争ってしまっていることになるんだ。ぼくらはこういう争いの外に出ることはできるだろうか? たとえばね、極端に争いを嫌う人が殴られてもけられてもいっさい無視していたとするね。それで殺されちゃったとする。どちらもルールの違う闘いに勝ったことにはなる。殴り殺されることも一つの勝ちパターンなんだ。となると、僕らは勝ち負けの外に出られないということになるな。解脱とかさ、悟りなんていうのも、これに似てるよ。それ自体が一つの価値であり、勝ちパターンの一つである世の中では、ほんとうに悟りを開いたり、解脱したりすることは、結局、不可能なんだよ。あらゆる勝ち負けを度外視しようとすると、そのことで勝ちパターンに入ってしまうんだからね。要するに、どんな人間もみんな勝ちたがってるってことになるね。」

『翔太と猫のインサイトの夏休み』(p.161-162)

 

関連:http://hideasasu.hatenablog.com/entry/2015/11/16/013755