中村圭志

宗教的次元を日常的次元から切り離す要素のひとつは功利性です。日常世界は利害関心、損得計算で成り立っている。通常の意識ではどうしてもここを乗り越えることができない。これを乗り越えさせてくれるものとして、日常生よりもいっそう高度な霊妙な働きがある……。
しかし、日常的功利性を超えた、カスミを食うような次元に生きている人間でさえ、「あの世に向けて徳を積む」という一種の観念的な功利性のなかに生きていると考えられます。このことを忘れるわけにはいかないでしょう。これはしばしば宗教家に対する皮肉として言われそうなことですが、まじめに受け止めるべきポイントです。
実際問題としても、教団のカリキュラムのなかで日々修行する人たちは、受験戦争のような、科挙のような点数稼ぎゲームに四苦八苦しています。「救済」という概念そのものが、そもそも功利的なものです。もし人間に功利性というものが欠けているのであれば、最初っから宗教を求める意味がないはずです。
このとき、「霊的次元における功利とは、功利に見えて功利にあらざるなり」と、禅問答のようなものを始めるよりも、あっさりと、「ある種のロジックは私たちがふだん知っている功利性とは少しずれた形の功利性の枠組みを用意しているのだ」と理解したほうがよいのではないでしょうか?

『信じない人のための〈宗教〉講義』(p.201)

強調引用者


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