ジョルジォ・アガンベン

安全保障が国の政治学の中心的な概念となったのは最近のことではなく、近代国家の誕生の時期にまでさかのぼる。ホッブスがすでに、安全性の保障と恐怖を対立させ、人間が社会を構成するのは安全性を保障するためであると指摘していた。しかし安全保障についての思想が全面的に開花したのは、十八世紀になってからのことである。

わたしたちはいま、安全保障の思想が極端にまで、そしてもっとも危険なところまで発展した状況に直面している。政治が次第に中立的なものとなり、国家が伝統的な任務を次第に放棄し始めた状況において、安全性を保障することが、国の行動の基本的な原則として登場するようになった。二十世紀の前半においては、安全保障はまだ行政府の複数の重要課題のひとつにすぎなかったが、いまや政治的な正統性の唯一の基準となっている。

 

しかし安全保障という思想には、重要なリスクが付随している。安全保障によってしか正統性を保証できず、国の課題が安全保障しかない国家は、とても脆い組織なのである。こうした国家はつねにテロリストからの挑発をうけて、みずからテロリズム的な国家になる危険があるのである。

現在、エコロジー、医学、軍事などのさまざまな側面で、すべての種類の緊急事態計画が策定されているが、これを予防するのための政治が欠けているのである。事態は逆なのだ。政治は、緊急事態を作り出すためにこっそりと働いているのである。民主主義の政治の課題は、人々の憎悪、テロリズム、破壊をもたらす条件が発生するのを防ぐのことである。憎悪やテロや破壊がすでに生まれてから、これをどうにか制御するのが政治の課題だと考えてはならないのである。

「秘密の共犯関係----安全保障とテロリズムについて」

 

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