道元

生死(しょうじ)の中に仏あれば生死なし。又云く、生死の中に仏なければ生死にまどわず。
こゝろは、來山(かつさん)・定山(じょうざん)といはれしふたりの禅師のことばなり。得道の人のことばなれば、さだめてむなしくまうけじ。
生死をはなれんとおもはん人、まさにこのむねをあきらむべし。もし人、生死のほかにほとけをもとむれば、ながえをきたにして越にむかひ、おもてをみなみにして北斗をみんとするがごとし。いよいよ生死の因をあつめて、さらに解脱のみちをうしなへり。ただ生死すなはち涅槃とこゝろえて、生死としていとふべきもなく、涅槃としてねがふべきもなし。このときはじめて生死をはなるゝ分あり。

「迷いの中に悟りがあれば、迷いはなくなる」
また言う、
「迷いの中に悟りがなければ、迷いに迷うことはない」
この言葉は、宋代の禅僧の來山善絵(かつさんぜんえ)と定山神英(じょうざんじんえい)という二人の禅師のものである。悟りを得た人の言葉であるから、無意味なものであるわけがない。
迷いから離脱したい人は、まさにこの言葉の真意を明らかにすべきである。人がもし、迷いの中で、別のものとしての悟りを求めるならば、車の轅(ながえ)を北に向けて南の越の国に向い、顔を南に向けて北斗星を見ようとするようなものだ。それだと、むしろ迷いの原因を寄せ集めて、ますます解脱への道を見失ってしまう。ただただ「生死」が即「涅槃」だと心得て、「生死」(迷い)であるからといってこれを忌避せず、「涅槃」を願ってはならない。そうしたとき、はじめて「生死」(迷い)を離れる手立てができる。

ひろさちや・編訳『[新訳]正法眼蔵 迷いのなかに悟りがあり、悟りのなかに迷いがある』

 

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