臨済

道流、大丈夫児は今日方(まさ)に知る、本来無事なることを。祇(た)だ汝が信不及なるが為に、念念馳求して、頭を捨てて頭を覓(もと)め、自ら歇(や)むこと能わず。円頓(えんどん)の菩薩の如きは、法界に入って身を現じ、浄土の中に向いて凡を厭い聖を忻(ねが)う。此(かく)の如きの流(たぐい)は、取捨未だ忘ぜず、染浄の心在り。禅宗の見解の如きは、又且(しばら)く然らず。直(じき)に是れ現今なり、更に時節無し。山僧が説処は、皆是れ一期(ご)の薬病相(やくへいあい)治(じ)す。総べて実法無し。若し是(かく)の如く見得すれば、是れ真の出家、日に万両の黄金を消(つか)わん。道流、取次(しゅじ)に諸方の老師に面門を印破(いんぱ)せられて、我れ禅を解(げ)し道を解すと道(い)うこと莫れ。弁の懸河(けんが)に似たるも、皆な是れ造地獄(ぞうじごく)の業。若し是れ真正の学道人ならば、世間の過(とが)を求めず、切急(せっきゅう)に真正の見解を求めんと要(ほっ)す。若し真正の見解に達して円明(えんみょう)ならば、方(まさ)に始めて了畢(りょうひつ)せん。

諸君、偉丈夫たる者は、今こそ自らが本来無事の人であると知るはずだ。残念ながら君たちはそれを信じきれないために、外に向ってせかせかと求めまわり、頭を見失って更に頭を探すという愚をやめることができない。円頓を達成した菩薩でさえ、あらゆる世界に自由に身を現すことはできても、浄土の中では、凡を嫌い聖を希求する。こういった手合いはまだ取捨の念を払いきれず、浄・不浄の分別が残っている。わが禅宗の見地はいささか違う。ずばり現在そのままだ。なんの手間ひまもかからぬ。わしの説法は、皆その時その時の病に応じた薬で、実体的な法などない。もし、このように見究め得たならば、それこそ真実の出家者で、日に万両の黄金を使いきることができる。諸君、おいそれと諸方の師家からお墨付きをもらって、おれは禅が分かった、道が分かったなどと言ってはならぬぞ。その弁舌が滝のように滔々たるものでも、全く地獄行きの業作りだ。真実の修行者であれば、世人のあやまちなどには目もくれず、ひたむきに正しい見地を求めようとするものだ。もし、正しい見地を得て月のように輝いたなら、そこで始めて修行は成就したことになる。

『臨済録』(p.56-58)

 

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