柳父章

(…)「天」は、日本語の意味を生かしつつ、まずGodの翻訳語として使われた。他方、natureの翻訳語としても「天」は「天性」、「天地」という形で、あるいは「天」としても使われている。すなわち、この時代に一つの「天」ということばが、Godの翻訳語であり、natureの翻訳語でもあったわけである。
しかし、西欧思想史上、Godとnatureとは、相互に厳しく対立する意味をもったことばである。
デカルトは、すでに述べたように、一七世紀前半、もしGodがいないとしてもnatureはその初めに定められた法則によって自立して動いて行くであろう、と述べた。この場合のnatureとは、今日言う「自然科学」の「自然」の意味であった。ほぼ同じころ、「『自然法』の父」と言われるグロチウスは、『戦争と平和の法』で、もしGodがいないとしても、natureの法はその効果を失わないであろう、と述べた。それから約一世紀後、一八世紀のルソーは、『人間不平等起源論』で、もしGodが、人間をnatureの状態のままに打ち捨てておいたとしたらどうなるか、と設問し、そこからnatureの権利の根拠を探ったのであった。こうして、西欧思想史上の中心のことばが、Godからnatureへと移っていったのである。しかし、以前としてGodは、西欧の信仰の中心であり、文化のあらゆる分野で重要な位置を占めていた。natureにとって、Godはsupernaturalな存在であり、厳しく区別されなければならなかった。
幕末・明治初期の知識人が、「天」を、一方でGodの翻訳語として使い、また他方でnatureの直接、間接の翻訳語としても用いた、ということは、矛盾である。西欧思想を深く学ぶに従って、この矛盾は明らかになってくるはずである。
「天」は、natureの翻訳語として使われるときでも、Godの翻訳語として使われる場合でも、まず日本語としてあった。したがって、問題は、「天」に負わされた、Godの翻訳語とnatureの翻訳語としての意味と、そして伝来の日本語「天」がもつ意味という三重の意味がからんでくる。当時の知識人は、この意味のずれ、ないし矛盾を、どのように気づき、またどのように処置していったのか。

「天」は、儒教もとより、およそ中国の古典の思想において、もっとも基本的な観念である。『易』は「天の道を立てて陰と陽と曰ふ」と説き始め、孔子は「天命を知る」、「我を知る者はそれ天か」などと「天」を語る。朱子は、その最も重要な用語「理」について、「天は即ち理也」と言う。儒家とは反対の立場をとる荘子も、「天」をその中心思想である「自然」と同じような意味で語っている。
「天」は、西欧文明におけるGodに対応する意味がある。ヨーロッパが、中世以来Godの観念を通じて一つの世界をもっていたように、中国もまた、さまざまな異民族が併立、乱立しながら、「天」という基本的、共通普遍の理念をもって一つの世界を形成していた、といえよう。

『翻訳の思想―「自然」とNATURE』

 

参照:http://www.arsvi.com/b1900/7707ya.htm