埴谷雄高・池田晶子

埴谷 ぼくは『存在と非在とのっぺらぼう』というエッセイを書きましたが、その書出しは、こうです。〈「思うという言葉によって、私は、すべて直接われわれ自身によって感知せられるという仕方でわれわれにおこるものの一切を意味する。理解する、欲する、想像するということばかりでなく、知覚することも、ここでは思うと同じことである」というデカルトの言葉は、文学における思想性の問題にとってもたいへん示唆的である〉と。
このデカルトの言葉で、あなたは何か気づきませんか。ここで、「思う」ということのなかにデカルトは「信ずる」をいれていないのですよ。「思う」と「信ずる」は、普通に考えると、兄弟のように思われるけれども、しかし「信ずる」ことを簡単に扱って認識のほうへいれようとすると、そのままおとなしくおさまっている場合もありますけれども、たいへんな大混乱を起す場合もあるんです。

池田 ええ、私も「信じる」って言葉は、宇宙に対して、とてもおかしな位置にあるといつも思っています。私がいるっていうことも、宇宙があるっていうことも、「そう信じているにすぎない」と言ってしまえば、それ以上どうしようもないでしょう。だからどこまでが「ほんとう」で、「どこからが「いんちき」ということになるのか、よくわからないんです。

池田晶子『オン! 埴谷雄高との形而上対話』(p.96-97)

 

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