小林秀雄

「地下生活者」*1は、地上に栄えるあらゆるものに向って舌を出す。この病人には、正常な人間というものが我慢がならない。理想とは何んだ。人類の為に水晶の宮殿が建てられた時、一人の汚らわしい紳士が何処からともなく現れ、これを見て退屈のあまり舌を出す事を俺は知っている。建設とは何んだ。人間は、狂気の様に破壊を愛する事を俺は知っている。進歩とは何か。大洪水のからシュレジッヒ・ホルスタインに至るまでの、人間のあの常住不断の悖徳を見給え。幸福とは何か。歯痛時に諸君が発する唸り声でもよく観察してみるがよい、人間は苦悩を愛する奇妙な動物だと合点するだろう。利益とは何んだ。自分は人間であり、オルガンの発音板ではない事を証明する為には、生命も落し兼ねない人間に、何が真の利益か解っている筈はあるまい。自然の法則とは何んだ。俺が望もうと望むまいと二に二を掛ければ四になるというに過ぎないではないか。二二んが五であっても構わぬと思っている人間の手から、科学は勿論だが、どんな道徳も宗教も生れて来ない、生れてもこの世に存続出来ないとは、何んという馬鹿々々しい事だ。「地下生活者」の毒舌にはきりがない。

彼は、野獣の様な眼附で虚空を睨む。疑おうと思えば、どんな立派そうなものでも、疑わしく見える。もともと悟性というものが否定的な力だからか。だが、この取るに足らぬ薄汚い「地下室」や、この不様な服装や、この卑屈な唸り声は、何か肯定的なものを語っていないか。凡てのものが崩れ去ろうとする危険のうち、この憐れな男は、少くとも自分だけは掛替えなく生きている事を感じてゾッとする。この感覚は、歯痛の様に彼を貫く。すべての行為は愚劣であり、無為ほどましなものはないと信じたこの男は、ひょんな事から自分でも呆れ返るほどの愚行を演じねばならぬ。生きるという事は、そういう具合なものなのか。

「『罪と罰』についてⅡ」

 

関連:http://hideasasu.hatenablog.com/entry/2015/03/21/124420

*1:ドストエフスキー地下室の手記』の主人公を指す