西谷啓治

自然的生命はそれ自身として無記である。普通に衝動とか欲望とか言われるものも、その大いなる自然的生命の発現として見られる限り、善でも悪でもない。野の百合がソロモンの栄華を凌ぐ花を開くことは百合の功ではなく、ペトロ等が眼倦れて眠入ったことは彼等の悪ではない。しかしながら、人間が自らを意識して、その自意識において、根本的構想力とも言うべきものによって、あたかも外物の如き実体性をもった「自我」の表象が構想され、自己がかかる構想された自我を真の自己として捉える時、かかる自我を屈折して働く自然的生命は、あたかも自我の底に潜んで自我を動かす暗い根本的欲動の如きもの即ち我意と呼ばれるものとなる。そしてその衝動も欲望も、かかる我意の発現としてという意味を持つ限り悪である。

『西谷啓治著作集 第1期第1巻』(p.85)

参照:http://blog.goo.ne.jp/sinanodaimon/e/48ad6bda2555a3ccbafaa8e10d4b24f2

関連:http://hideasasu.hatenablog.com/entry/20091029/1256780086