小室直樹

こうして、終末論をふまえてキリスト教と仏教を比較してみると、とてつもないことに気づく。仏教では、衆生は天上、人間から、地獄に至るまで、六道をぐるぐるぐるぐる回っている。輪廻するというのは罪がある人に限って輪廻する。しかし大概の生き物は罪があるから輪廻する。全く罪がなくなって、本当の悟りをひらいた人はどうなるかというと、涅槃に入り、もはや輪廻しないのだ。だから生まれ変わるということは絶対にありえない。天上でずっと住み着けるわけでもない。しかも三界に家なしどころか、六道界どこにも居場所はなく、もはやどこにも生まれず、その存在すらもない。この状態はいわば、キリスト教の永遠の死と同じことではないか。永遠の死とどこが違うというのか。
驚くべきことはここにある。すなわち、キリスト教においては永遠の死とは最大の罰であるのに対し、仏教においては永遠の死が最大の祝福の状態である。救済である。その意味でキリスト教の救済と仏教の救済では全く正反対なのだ。
仏教において悟りに入る、涅槃に入るというのはものすごく難しく、膨大な時間がかかる。それだけ苦心して、長い時間もかけて、やっと悟りをひらいたと思ったら、もはや永遠の死がやってくる。勿論、永遠の死という言葉を使うわけではないが、状態は何ら変わらない。だからあくまでも生きたいと思ったら、どこかで罪作りをしなければならない。俗人にとって理想的なことは、適当に修行して、適当にいいことして、ちょっとだけ罪を作っておくことではないか。完全に悟りをひらいて涅槃に入ってしまったら、永遠に、地獄にすら生まれてこないし、天上にも人間にも生まれてこないわけなのだから。
宗教を比較して考察すると、思いもしないことに目が向くものである。

『日本人のための宗教原論』(p.66-67)

 

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