福岡伸一

生命は約37億年の時間の試練をくぐり抜けて、今日まで連綿と引き継がれてきた。こんなに長い時間、生命はいかにして生きながらえることができたのか。彼らは、時間と戦うために、はなから、頑丈に作ること、丈夫な壁や鎧で自らを守るという選択を早々にあきらめた。そんなことをしてもやがては打ち負かされ、あるいは崩されて行くのが自然の掟だ。そこで彼らは、あえて自分をやわらかく作った。ゆるゆる・やわやわにした。その上で、自らを常に、壊し・分解しつつ、作りなおし・更新するという方法を取ったのである。古くなったから、壊れたから、錆びたから交換するのではなく、古くなる前に、壊れるより先に、錆びる手前で、もう手当たり次第にどんどん新しいものに入れ替え、取り替えて行くことにしたのだ。

 

この絶え間のない分解と更新と交換の流れこそが生きているということの本質だった。逆にいえば、生命を定義づけ、特徴づけるものは、絶え間のない物質とエネルギーと情報の流れそのものだということができる。

 

そこで、私は、機械論的な見方に傾きすぎた生物学をもう少し、動的な、流れとその流れの中でかろうじてバランスをとるものとして捉えなおす、新しい生命観を打ち立てたいと考えるようになっていった。それが動的平衡の生命論である。

よいことも悪いことも、悲しいことも楽しいことも、あらゆることが、動的平衡たる生命の流れの中では、まもなく分解され、流れの中に拡散していく。それをむなしいと見ることもできるし、ここに希望を見いだすこともできる。少なくとも私たちは常にわずかずつでも更新されているのだと。つまらないことに拘泥するのはやめようと。これは、方丈記を諦観の文学と読むこともできるし、希望の文学とも読むことができることと完全に同じである。やはりここでも動的平衡論は、方丈記をかすかになぞっているにすぎない。

  「動きと揺らぎと」/『無常という力』文庫解説 by 福岡伸一