佐藤義寛

「愛」難しい言葉である。
われわれは、愛を絶対・至高のものと考えがちである。キリストは「汝(なんじ)の隣人を愛せ」と言い、孔子の説いた「仁」もまた愛であり、テレビは「愛は地球を救う」と叫ぶ。しかし、彼らと違って、釈尊は愛は苦だと説き、悟りへの障碍物と教える。
釈尊は、妻をすて、子をすて、家をすてて出家の道に身を投じた。それはまた愛を切りすてることでもあった。愛は深ければ深いほど、切りすてる時の苦悩もより強い。その強い苦悩を知っているからこそ釈尊は愛を苦ととらえたとも考えられる。
また愛という言葉自体は本来すばらしい言葉ではあるのだが、われわれ凡夫(ぼんぶ)の愛の裏側には、常に区別の思いが隠れている。わが子を愛する心の裏には、わが子とよその子を区別する心があるように、何かを愛するという心の裏には、別の何かは愛さないという心が潜んでいる。愛国心という言葉が時として危険性をはらむのはこのためでもある。そしてこの区別する心は、すぐに区別したものに対する執着の心を生み出す。この執着を背景に持つ愛は、単なる己の欲望充足のための愛である。
そもそも仏教でいう愛とは、トリシュナーの訳語で、欲望の充足を求める「渇愛(かつあい)」をいう言葉である。こういう凡夫の愛こそが悟りへの障害でもあり、円覚経(えんがくきょう)という経典にいう「輪廻(りんね)は愛を根本と為す」の愛なのである。輪廻を脱するために、言いかえるなら、解脱(げだつ)のためには障碍となるような愛、釈尊自身こうした凡夫の愛を切りすてることによって、より大きな深い愛へ近づこうとしたのかもしれない。
たとえば飢えた獣の前に我が身を投げ出したという、本生譚(ほんじょうたん)に語られる愛。けして自己の欲望充足のためではなく、生きとし生けるものに広く等しくそそがれる絶対平等、無差別の愛、「仏の慈悲」と名づけられたこの愛こそが、釈尊が求めた愛であったのだろう。
また善人のみならず悪人にこそ往生の可能性があると説いたわが親鸞の、その背景にある「愛」も、この愛であったように思われてならない。

生活の中の仏教用語

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