安藤馨

自動車のエンジンが酒気を帯びていれば起動しないメカニズム、脱税なき完全消費税を達成する貨幣の完全電子化など、行為主体の予期がなくとも望ましい行動を採らせることが可能な統治技術の発達は、予期と愛着=共感を必要とする威嚇サンクションを無用ならしめ、その高い功利性ゆえに統治に於いて重要な意義を持ってきた「人格」をその地位から追いやることになるだろう。ここにいたっては、近代的な「個人」はもはや無用である。配慮の共同体の縮小は、それまでの配慮の共同体内部での抑圧と桎梏を統治による是正の対象として暴露するであろう。「人格」もまた例外ではなく、「人格」自体に諸意識に対する抑圧と不正が内在しうることに注意することが必要である。(p278)

このようにして我々の統治功利主義は、政治社会に於ける配慮の共同体の範囲を頑迷にも家族共同体へと差し戻そうとする現代のトーリたる右派と、その範囲を固陋にも個人に保ち続けようとする現代のウィッグたる左派の双方を共に退け、快苦を経験する意識主体としての人間を「人格」の圧政から――哲学的急進派が個人を家父長的圧政から解放しようとしたのと同様に――解放しようとする現代の急進派という名誉ある地位を占めるであろう。統治功利主義は、我々を「人格」の桎梏から解放せしめるものとして目下の統治技術の発展を基本的に称揚し、濫用を防止しつつその正しい(=幸福を最大化する)使用を確保せしめるような統治アーキテクチュアが如何に可能かを問おうとするのである。(p279-280)

『統治と功利』

 

参照:http://d.hatena.ne.jp/morningrain/20071110/p1
http://blogs.yahoo.co.jp/tessai2005/archive/2008/01/06

 

関連:http://hideasasu.hatenablog.com/entry/20091021/1256110055
http://hideasasu.hatenablog.com/entry/2014/12/25/200106