エーリッヒ・フロム

アリストテレス以来、西洋世界はアリストテレス哲学の論理に従ってきた。その論理とは、AはAであるという同一律と、矛盾律(Aは非Aではない)と、排中律(Aは、Aであると同時に非Aであることはできないし、Aでないと同時に非Aでもないということもありえない)にもとづく。アリストテレスは自分の立場を次のように明確に述べている。「同じものが、同時に、そして同じ事情のもとで、同じものに属し、かつ属さないということは不可能である。反論を防ぐために、その他の条件をいろいろ付加する必要があれば、してもよい。だがどにかく、これがすべての原理のうちでもっとも確かな原理である」(原注:アリストテレス『形而上学』p.122参照)
このアリストテレス論理学の公理は、私たちの思考習慣にあまりに深く浸透しているので、「自然」で自明のように感じられ、XはAであると同時に非Aでもあると言われると、意味をなさないように思われる(もちろんこの場合、Xはある時点におけるXのことであって、あるときのXとその後のXというわけでも、Xの一局面と他の局面というのでもない)。(p.113)

アリストテレス論理学の対極にあるのが、逆説論理学とでも呼びうるもので、これによれば、Aと非AとはXの属性として排除しあわない。逆説論理学は、中国やインドの思想、ヘラクレイトスの哲学において主流を占め、さらに、弁証法の名のもとに、ヘーゲルの、そしてマルクスの哲学となった。逆説論理学の一般原理については、老子が明確に説明している。「厳密に真実である言葉は逆説的であるように見える」。また、荘子の説明ではこうだ。「一つであるものは一つである。一つでないものもまた一つである」。これらの公式は「……であり……でない」というふうに肯定的だが、「……はこれでもなく、あれでもない」といった否定の公式もある。前者のような思想表現は、道教思想、ヘラクレイトス、そしてヘーゲル弁証法に見られ、後者のような公式はインド哲学によく見られる。(p.113-114)

これまでアリストテレス論理学と逆説論理学とのちがいについて述べてきたのは、神への愛という概念における重要な差異について論じるためである。逆説論理学の教師たちはこう教える――人は矛盾においてしか知覚できず、最高の唯一の実在である神を思考によって知ることはできない、と。
ここから、思考のなかに答えを求めることを究極の目的としてはならない、という結論が導かれる。思考はただ、思考によって究極の答えを知ることはできない、ということを人に教えるだけだ。思考の世界は逆説に囚われたままである。結局のところ、世界を知るただ一つの方法は、思考ではなく、行為、すなわち一体感の経験である。したがって逆説論理学は次のような結論に達する――神への愛とは、思考によって神を知ることでも、神への愛について考えることでもなく、神との一体感を経験する行為である。(p.118-119)

『愛するということ』

太字=原文傍点

 

関連:http://hideasasu.hatenablog.com/entry/2015/05/17/180550
http://hideasasu.hatenablog.com/entry/20091031/1256952586
http://hideasasu.hatenablog.com/entry/2015/05/28/220857

即非の論理:鈴木大拙の思想