鈴木大拙

知性は究極のものではなく、己れよりも高い何ものかを待って初めて、結果をかまわずに提起した全ての問題の解決を見るに到るのである。もし知性が、混乱の中に新しい秩序をもたらして、はっきりと解決をつけることができるものであったら、アリストテレスなり、ヘーゲルなり、偉大な思想家によってひとたび哲学が体系づけられたのちは、もはや哲学は必要でなかったであろう。しかし、思想の歴史が証明するように、非凡な知性の人によって築かれた新しい体系は、どれも必ず、後に続く者たちによって倒されてきた。このように絶え間なく、倒してはまた組立てるということは、哲学自体に関する限り結構なことである。なぜならば、自分が思うに、知性本来の性質がそれを要求するのであって、哲学的探求の進行は、我々の呼吸のように止めることができないからである。しかし、人生それ自体の問題になってくると、たとえ知性が究極の解決をもたらすことができるとしても、それを待つわけにはゆかない。我々は、一瞬たりとも、生活活動を停止して、哲学が人生の神秘を解き明かすのを待つわけにはゆかない。神秘はそのままにしておいても、我々は生きねばならぬ。飢えた者は、食物が完全に分析され、各々の要素の栄養価が決定するまで待つことはできない。なぜならば、死者には食物の科学的知識は何の役にも立たないからである。だから禅は、その最深の問題の解決を、知性に頼らないのである。

(『禅』/英文和訳)

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