小林秀雄

耳もとで誰かがささやく、――何故お前はもっと遠い処に連れて行って貰わないのか。お前の考えている幸福だとか不幸だとか、悲劇だとか喜劇だとか、なんでもいい、お前が何かしらの言葉で呼んでいる人生の片々は、お前がどんなにうまく考え出した形象であろうとも、そんなものは本当のこの世の前では、――さあなんと言ったらいいか、いやお前は何故大海の水をコップで掬う様な真似をしているのだ、――何故お前はもっと遠い処に連れて行って貰わないのだ。――囁きはやがて俺を通過して了う。そして俺は単に落ち着いているのである。

(「Xへの手紙」)