中野孝次

大体こんなふうに話してくると、ここまで来てようやく「清貧」という言葉でわたしが何を言おうとしているかを察してもらえだすようであった。それまでは「清貧」は消極的な禁欲原理としか受取られず、それがアジアの汎神論的な感性をもととした積極的な宇宙との一体化原理であるとまではかれらには想像もできなかったのである。

『清貧の思想』