リチャード・ドーキンス

われわれが死後に残せるものが二つある。遺伝子とミームだ。われわれは、遺伝子を伝えるためにつくられた遺伝子機械である。しかし、遺伝子機械としてのわれわれは、三世代もたてば忘れられてしまうだろう。子どもや、あるいは孫も、われわれとどこか似た点をもってはいよう。たとえば顔の造作が似ているかもしれない、音楽の才能が似ているかもしれない、あるいは髪の毛の色が似ているかもしれない。しかし、世代が一つ進むごとに、われわれの遺伝子の寄与は半減してゆくのだ。その寄与率は遠からず無視しうる値になってしまう。われわれの遺伝子自体は不死身かもしれないが、特定の個人を形成する遺伝子の集まりは崩れ去る運命にあるのだ。エリザベス二世は、ウィリアム一世の直径の子孫である。しかし彼女がいにしえの大王の遺伝子を一つももち合わせていない可能性は大いにあるのである。繁殖という過程の中に不死を求めるべきではないのである。

しかし、もしわれわれが世界の文化になにか寄与することができれば、たとえば立派な意見を作り出したり、音楽を作曲したり、発火式プラグを発明したり、詩を書いたりすれば、それらは、われわれの遺伝子が共通の遺伝子プールの中に解消し去ったのちも、長く、変わらずに生き続けるかもしれない。

利己的な遺伝子