中村元・田辺祥二

この世の実相は、生滅の世界なのであるから「有」とも「無」ともいえないというのです。それでは何なのか、とすぐいいたくなるでしょう。ブッダは、それは縁起の世界だというのです。無数の原因と条件によって生滅をくり返している世界なのだから、これは有るといって固定化することはできないし、これは無いといって断滅させることもできないのです。人間の生死についても同じことがいえます。生きるということは、死につつあることで、生と死は切り離して考えることはできません。何事も「有無」「生死」などそれぞれ一方を断定して固執しても、ものの実相にはならないとブッダは説きます。つまり「空」であり「無我」であります。これがブッダの死克服の解決法なのです。ブッダは「我有り」とか「わがもの」とかの思いを撃ち砕けと説きます。つまり前にも述べたように、我われの存在の根源には、生存欲の中核(コア)があります。それによって自我という仮構された自意識を生み出しています。この自意識はさらに利己的な世界像を形造っていきます。これによって自己は個的に存在しているとの強い錯覚が生じます。これが「我有り」であり、「わがもの」という我執であるわけで、あくまで個的な自意識ですから、すべてのものを分別し、分離してしまいます。そして、自分は生きているという過剰な執着にとらわれ、死をむやみに恐怖することになります。
ブッダは人間存在のこの構造を熟知していました。そして人間存在は本来無我なのだから、本来の姿にのっとって生きよと説いたわけです。つまり、仮構された自我を取り去ってしまえば、自分と他者との区別がありませんので、死すべき自分は消滅することになります。ただ無我といっても、仮構された個別的自我がないのであって、自己存在そのものが無いのではありません。本来の自己は個的なものではありませんので、自他不二とか一即一切とか、世界即自己とか、天上天下唯我独尊とか、大乗仏教ではいわれます。

 『ブッダの人と思想』

 

関連:http://hideasasu.hatenablog.com/entries/2013/10/20