カント

非社交的な社交性

自然が人間のすべての素質を完全に発達させるために利用した手段は、社会においてこれらの素質をたがいに対立させることだった。やがてこの対立関係こそが、最終的には法則に適った秩序を作りだす原因となるのである。対立関係(アンタゴニスムス)という言葉はここでは人間の非社交的な社交性という意味で理解していただきたい。これは、人間が一方では社会を構築しようとする傾向をもつが、他方では絶えず社会を分裂させようと、一貫して抵抗を示すということである。この素質が人間の性質に内在しているのは明らかである。人間には、集まって社会を形成しようとする傾向がそなわっている。それは社会を形成してこそ、自分が人間であることを、そして自然の素質が発展していくことを感じるからである。
ところが人間には反対に、一人になろうとする傾向が、孤立しようとする傾向がある。人間には孤立して、すべてを自分の意のままに処分しようとする非社交的な傾向もあるのであり、そのためにいたるところで他者の抵抗に直面することを予期するようになる。自分のうちにも、他者に抵抗しようとする傾向があることを熟知しているからである。この抵抗こそが、人間にそなわるすべての力を覚醒させ、怠惰に陥ろうとする傾向を克服させ、名誉欲や支配欲や所有欲などにかられて、仲間のうちでひとかどの地位を獲得するようにさせるのである。人間は仲間にはがまんできないと感じながらも、一方でこの仲間から離れることもできないのである。
人間が粗野な状態から文化へと進むための真の一歩が、ここに始まる。文化とはそもそも人間の社会的な価値を本質とするものだからだ。こうしてあらゆる才能が次第に伸ばされ、趣味が豊かになり、啓蒙がつづけられることによって、ある種の思考が鍛えられるようになる。この思考によって、当初はまだ自然の粗野な資質によって善悪の倫理的な判断をしていた人々が、時とともに明確な実践的[道徳的]な原則に基づいて判断するようになる。そして当初は情念に基づいた強制のもとで社会を形成していたとしても、やがては道徳に基づいて全体的な社会を構築するようになるのである。
こうした非社交的な特質はたしかにあまり好ましいものではないし、利己心にかられて思い上がったふるまいをする人は、こうした特性のために抵抗に直面せざるをえないものである。しかしこうした非社交的な特性がなければ、人々はいつまでも牧歌的な牧羊生活をすごしていたことだろう。そして仲間のうちで完全な協調と満足と相互の愛のうちに暮すことはできても、すべての才能はその萌芽のままに永遠に埋没してしまっただろう。人間は自分たちが飼う羊のように善良であるだろうが、自分たちには飼っている羊たちと同じくらいの価値しかないと考えるようになっただろう。そして創造という営みが、人間のために理性を行使する大きな空白部分を残しておいてくれたというのに、理性的な本性をもつ人間が、その満たすべき目的を実現することはなかっただろう。

◇悪の起源

だから人間は自分に協調性が欠けていること、互いに妬み、争いを求める嫉妬心をそなえていること、決して満たされることのない所有欲に、ときには支配欲にかられていることを、自然に感謝すべきなのである。こうしたものがなければ、人間のうちに秘められたすべての傑出した自然の素質は、永遠に目覚めることなく、眠りつづけただろう。人間は協調を欲する。しかし人類に何が必要であるかをよく知っている自然は、人間に不和を与えることを選んだのである。人間はくつろいで楽しく暮らすことを欲している。しかし自然が人間に望んでいるのは、怠惰で、無為なままに満足して暮らす生活から抜け出して、労働と労苦の生活のうちに身を投じることであり、智恵を働かせて、この労働と労苦の生活から抜け出すための手段を見つけることである。そのために用意された自然の原動力は、非社交性と、いたるところでみられる抵抗の源泉である。ここから多くの悪が生まれる一方で、これがさまざまな力をあらたに刺激して、自然の素質がますます発展するようにしているのである。賢き創造主はこのように手配してくれたのであり、悪霊のようなものがいて、創造主のすばらしい配置をこっそりといじったわけでも、嫉妬のあまり破壊したわけでもないのである。

「世界市民という視点からみた普遍史の理念」/『永遠平和のために/啓蒙とは何か』(p.40-43)

強調原文

 

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