ドストエフスキー

僕自身はと云えば、僕は時代の子、不信と懐疑との子だと言えます。今までそうだったし、死ぬまできっとそうでしょう。この信仰への飢えが、今までどんなに僕を苦しめて来たか、今も苦しめているか。飢えが心中で強くなればなるほど、いよいよ反証の方を摑む事になる。しかし、神様は、時折僕が全く安らかでいられる様な時を授けて下さいます。そういう時には、僕は人々を愛しもするし、人々から愛されもする、そういう時僕は信仰箇条を得ます、すると凡てのものが、僕には明白で、神聖なものとなります。信仰箇条と言うのは、非常に簡単なものなのです。つまり、次の様に信ずる事なのです、キリストよりも美しいもの、深いもの、愛すべきもの、キリストより道理に適った、勇敢な、完全なものは世の中にはない、と。実際、僕は妬ましい程の愛情で独語するのです。そんなものが他にある筈がないのだ、と。そればかりではない、たとえ誰かがキリストは真理の埒外にいるという事を僕に証明したとしても、又、事実、真理はキリストの裡にはないとしても、僕は真理とともにあるより、寧ろキリストと一緒にいたいのです。

書簡(「シベリヤ流刑の後、フォンヴィジン夫人に宛てたものの一節」)/小林秀雄「『カラマアゾフの兄弟』」より孫引き(『ドストエフスキイの生活』p.225-226)

 

関連:http://hideasasu.hatenablog.com/entry/2015/05/12/105606