司馬遼太郎

谷こそ古日本人にとってめでたき土地だった。丘(岡)などはネギか大根、せいぜい雑穀しか植えられない。
江戸期のことばでも、碁の岡目八目とか岡場所(正規でない遊里)という場合の岡は、傍とか第二義的な土地という意味だった。
村落も谷にできた。
近世の城下町も、谷か、河口の低湿地にできた。
様子がすこしかわったのは、幕末から明治にかけて開港場ができてからである。西洋人たちは横浜、長崎、あるいは神戸などの後背地のある高燥な丘(山手)に異人館を営んだ。低地こそ人の住む所だと思い込んでいた地下衆には奇異な感じがしたにちがいない。

要するに日本は二千年来、谷住まいの国だったということをいいたかっただけである。将来のことは、よくわからない。
谷の国にあって、ひとびとは谷川の水蒸気にまみれてくらしてきただけに、前掲の「老子」にいうことばが、詩でも読むように感覚的にわかる。

  

  谷神(こくしん)は死せず、是を玄牝と謂ふ。玄牝の門、是を天地の根と謂ふ。綿綿として存するが如し。之を用ふれども勤(つ)きず。*1

「谷の国」/『この国のかたち(一)』

*1:引用者注:『老子』第六章