竹内整一

浄土教も仏教である限り、最終的には、何の欲望・煩悩も兆さないという涅槃(ニルバーナ=火が吹き消えた状態)が目指されています。欲望・煩悩の火がメラメラと燃えているかぎり苦しみが引き起こされるから、それを吹き消すことによって、もう苦しまなくてもいい状態に至ろうということです。“楽”というのは、つまりそういうことなのであって、「寂滅(涅槃)を楽と為す」などと言われるのはそういう意味です。

「楽」と「楽しい」では、語感が違います。苦しいことがあって、その苦しみから逃れられたとき、たとえば背負っていたずっしりと重い重荷をおろしたときに感じる、ああ楽になったという、その「楽」の語感は、面白く愉快だという「楽しい」の語感とは同じではない。「楽」は、いわば苦しみというマイナス・負債がゼロになったところでのものであるのに対し、「楽しい」は、われわれの願望・欲望が、いわばプラスとして発動し、それが満たされたところでのものです。
極楽とは、“楽”の極みという意味ですが、そこには、この両方の意味合いがパラドキシカルに共存しています。「欣求浄土」という「欣(よろこ)びを求める」情熱とは、まさにわれわれ凡夫の願望・欲望そのものです。ですから、極楽というのは、少なくともその端緒においては、そうしたわれわれの望みが全的に満たされる世界として目指されているわけです。しかし、やがてはそれが一切の願望・欲望の兆さない、沈黙・寂滅の世界にもなるというところに、浄土教という仏教の眼目があるわけです。
「楽しさ」というものが、苦しみと糾われながらある彩りだとするなら、その彩りさえも透過してしまうような「楽」というあり方は、つまりは何事も起こらない、文字どおり退屈極まりない世界ではないか(…)

『「はかなさ」と日本人』(p.52-53)

 

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