小林秀雄

例えば、人間の頭脳に、何百億の細胞があろうが、驚くに当らない。「人工頭脳」の細胞の数は、理論上いくらでも殖やす事が出来る。ただ、そう無闇に多くのデータを「人工頭脳」に記憶させるには、機構を無闇に大きくしなければならず、そんな金のかかる機械では実用に向かないだけの話だ。こういう説明の仕方は、これを聞いている人々を、「人工頭脳」を考え出したのは人間頭脳だが、「人工頭脳」は何一つ考え出しはしない、という決定的な事実に対し、知らず識らず鈍感にして了う。

機械は、人間が何億年もかかる計算を一日でやるだろうが、その計算とは反覆運動に相違ないから、計算のうちに、ほんの少しでも、あれかこれかを判断し選択しなければならぬ要素が介入して来れば、機械は為すところを知るまい。これは常識である。常識は、計算することと考えることとを混同してはいない。将棋は、不完全な機械の姿を決して現してはいない。熟慮断行という全く人間的な活動の純粋な型を現している。
テレビを享楽しようと、ミサイルを呪おうと、私達は、機械を利用する事を止めるわけにはいかない。機械の利用享楽がすっかり身についた御蔭で、機械をモデルにして物を考えるという詰まらぬ習慣も、すっかり身についた。御蔭で、これは現代の堂々たる風潮となった。
なるほど、常識がなければ、私達は一日も生きられない。だから、みんな常識は働かせているわけだ。併し、その常識の働きが利く範囲なり世界なりが、現代ではどういう事になっているかを考えてみるがよい。常識の働きが貴いのは、刻々に新たに、微妙に動く対象に即してまるで行動するように考えているところにある。そういう形の考え方のとどく射程は、ほんの私達の私生活の私事を出ないように思われる。事が公になって、一とたび、社会を批判し、政治を論じ、文化を語るとなると、同じ人間の人相が一変し、忽ち、計算機に酷似してくるのは、どうした事であろうか。

「常識」文藝春秋 1959年6月)/『考えるヒント』

太字引用者

 

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