森三樹三郎

自然を人工に対立させ、人工を拒否して自然を固守するというのは、自然の道として初歩的な段階にすぎない。いわば機械を使って機械に使われないことこそ、真の道であるというのである。
だが天地篇(引用者注:『荘子』)の作者のいいたいのは、機械のことだけではない。人間の日常の生活は、人為と人工にとりまかれ、不自然そのものである。もし無為自然を忠実に守ろうとするなら、俗事を避けて山中に隠れるということになるかもしれない。しかし真の自然の道はそのような消極的なものではなく、かえって世俗のうちにあって、しかも世俗にとらわれないことだ、というのである。(p124)

老荘がその理想とする虚無の自然に達するためには、ただ人為をすてさえすればよかった。無為がそのまま自然であった。ところが仏教では、ただ一つの例外である日本の浄土真宗をのぞいて、無為の自然に達するには血のにじむような精進が必要とされた。ここに無為自然と練達自然との性格の相違がある。(p139)

『「無」の思想』

 

関連:http://hideasasu.hatenablog.com/entry/2015/05/06/183507
http://hideasasu.hatenablog.com/entry/2015/05/25/174739

 

参考:中国雑学:陸沈(りくちん)