小林秀雄

俺達は今何処へ行っても政治思想に衝突する。何故うんざりしないのか、うんざりしてはいけないのか。社会の隅々までも行き渡り、誰もこれを疑ってみようとは思わない。ほんの少しでも遠近法を変えて眺めてみ給え。これが、俺達の確実に知っている唯一つの現実、限りない瑣事と瞬間とから成り立った現実の世界に少しも触れてはいない事に驚く筈だ。この思想の材料となっている極めて不充分な抽象、民族だとか国家だとか階級だとかいう概念が、どんなに自ら自明性を広告しようと或は人々がこの広告にひっかかろうと、人間は嘗てそんなものを一度も確実に見た事はないという事実の方が遥かに自明である。

(「Xへの手紙」)