ドストエフスキー

それにしても諸君は、ただ正常で、肯定的なもの、つまりは泰平無事だけが人間にとって有利であるなどと、どうしてまたそれほど頑固に、いや誇らしげに確信しておられるのか? いったい理性は利害の判断を誤ることがないのか? ひょっとして、人間が愛するのは、泰平無事だけではないかもしれないではないか? 人間が苦痛をも同程度に愛することだって、ありうるわけだ。いや、人間がときとして、おそろしいほど苦痛を愛し、夢中にさえなることがあるのも、まちがいなく事実である。

ぼくの確信によれば、人間は真の苦悩、つまり破壊と混沌をけっして拒まぬものである。苦悩こそ、まさしく自意識の第一原因にほかならないのだ。ぼくは最初のほうで、自意識は、ぼくの考えでは、人間にとって最大の不幸だ、などと説いたが、しかしぼくは、人間がそれを愛しており、いかなる満足にもそれを見変えないだろうことを知っている。自意識は、たとえば、二二が四などよりは、かぎりもなく高尚なものである。二二が四ときたら、むろんのこと、あとにはもう何も残らない。することがなくなるだけではなく、知ることさえなくなってしまう。そのときにできることといったら、せいぜい自分の五感に 栓をして、自己観照にふけることくらいだろう。ところが、自意識が一枚かんでくると、なるほど結果は同じで、やはり何もすることがなくなってしまうにして も、しかし、すくなくとも、ときどきは自分で自分を鞭打つぐらいのことはできるわけで、これでもやはり多少は救いになるのである。なんとも消極的な話だ が、それでも、何もないよりはましというわけだ。

地下室の手記

 

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