森三樹三郎

しかし荘子無為自然というのは、ただの運命随順の思想とは違って、あらかじめ運命のもつ牙を抜きとり、いわば去勢してしまっていることを忘れてはならない。もし人生の幸と不幸が、そのままの姿で迫ってくるのであれば、いかに運命を肯定せよといっても、それは無理というものであろう。万物斉同の説は、そのためにこそあるといってよい。万物斉同の認識の上に立つものにとっては、富と貧、貴と賤、長命と短命、総じて幸福と不幸とよばれている差別の姿は、すべて人為によって構成された虚妄にすぎない。とすれば、このような虚妄に惑わされて一喜一憂することなく、平心にこれを受けとることができるはずである。

 「人力ではどうすることもできないと悟ったとき、運命のままに従うことこそ、至上の徳であるといえよう」(人間世篇)

 「すべてを物事のなりゆきのままにまかせ、心をゆうゆうと自由の境地に遊ばせて、やむにやまれぬ必然のままに身をゆだね、心の中におのずからな中正の状態を養うがよい。しいて、よい結果を求めようとするな。ひたすら天命のままに従え」(同右)

 「聖人は、何ものも失う恐れのない境地、一切をそのままに受けいれる境地に遊び、すべてをそのままに肯定するのである。青春をよしとし、老年をよしとし、人生の始めをよしとし、人生の終わりをよしとする」(大宗師篇)

 『老子・荘子』(p.81-82)

太字引用者

 

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