港千尋

原牛の生命も、クローン牛の生命も、そして再クローン牛の生命も、いまや同じように「生命」と呼ばれる。生命をクローンしてゆくという、この単純な事実以上に、わたしたちを驚かせるものはない。この「生命」は、「生命」科学や「生」物学と同じ意味として使われている生命である。一方、牛の「生」や人「生」と言ったときの「生」には、これと異なる意味が含まれている。英語のlifeにも、フランス語のvieにも、同じような二重の意味がある。もともと「生命」という言葉には、生き物としての命と、記憶や歴史をもって現実の世界に生きている、「生の経験の総体」という二重の意味が含まれているからであろう。
この言葉の二重の意味に照らし合わせると、生物学すなわちbiologyという語の意味的な偏りが気になる。古代ギリシャの人々は、上記の二つの意味に対応する二つの異なる語をもっていた。動物や人間といった生命をもつものが生きているということを意味するzoe(ゾーエー)と、都市国家に生きる人間に固有の、「生き方」とも言うべきbios(ビオス)である。前者は動物園や動物学という語のなかにその意味の一部を保っており、後者は端的に「バイオ」と言われるように、そのまま生命科学の言葉として残っている。この語義にしたがうのなら、クローン牛を作ったり、ヒトゲノムを解析する科学はゾーエーを扱っているはずである。そこでは牛や人のビオス、すなわち牛や人間に固有の「生き方」は問題外であり、biologyなる語は、原義とは反対に、ビオスを扱わない科学であるということになる。

『自然 まだ見ぬ記憶へ』

 参照:http://magnoria.at.webry.info/201009/article_135.html