木村敏

神話学者のカール・ケレーニーによれば、古代のギリシャ語は生命を意味する二つの単語「ビオス」と「ゾーエー」をもっていた(岡田素之訳『ディオニューソス』白水社、15頁以下)。
「ビオス」biosというのはある特定の個体の有限の生命、もしくは生活のことである。そしてこれは、生物学のことをバイオロジー biologyといい、伝記のことをバイオグラフィー biographyという場合の「バイオ」の語源となっている。これに対して「ゾーエー」zoeは、そういった限定を持たない、個体の分離を超えて連続する生命、個々のビオスとして実現する可能態としての生命だという。現在の言葉で探すとゾーロジー zoologyというのは動物学のことだし、それをつづめたズー zooというのは動物園のことで、これがゾーエーから来ているのだが、ここには残念ながらゾーエーの正しい意味が伝わっていない。いずれにしてもこの二つの単語は、私たちの考えている個々の個人の生命ないし生活と、その底を流れている無限定の根源的生命との区別にほぼ対応していると考えてよい。

『心の病理を考える』 (p.121)