村松剛

日本人は美しい緑の国土に、その美しさをかくべつ不思議と思わずに生きています。自然というものは美しいものだと、だれでもがあたりまえのこととして、そう考えている。春には花が咲き、秋には野山は紅葉します。もし神があるとすれば、この美しい自然のなかにあるはずではないか。日本人はむかしから、当然そう考えてきました。
山を見ては霊峰だといい、大樹を神木と呼び、花の散るのをまえに人生の究極の美を感じて、「花の下にてわれは死なん」とうたった日本人の、その宗教的心性は、和辻哲郎氏がはやくから指摘されていたように、自然の環境によって、養われたものなのです。砂漠の民にとっては、自然は美の代名詞ではありえない。岩と灰色の荒野ばかりが続く自然は、そんな微妙な美しさをもってはいないのです。花も木も、白い雪をいただいた「霊峰」も、ここにはありはしない。まわりを見まわしても、神の姿を宿してくれそうなものは、なに一つ存在しません。

『教養としてのキリスト教』(p.86)