玄侑宗久

日本語に「しあわせ」という言葉がありますが、そこには『荘子』や禅の受け身をよしとする考え方が強く生きているように感じられます。「しあわせ」は奈良時代には「為合」と表記しました。「為」は「する」という動詞ですが、その主語は「天」です。天が為すことに合わせるしかない。それが「しあわせ」という言葉の由来です。この言葉はほぼ「運命」と同じ意味でした。しかし室町時代になってくると、その表記が行為の「為」から仕事の「仕」に変わっていきました。「仕合」ですね。そうすると、今度は主語が人になっていきます。「仕合」は「しあい」とも読みました。スポーツの対戦を今は「試合」と書きますが、もともとは、「相手がこうきたからこう仕合わせる」という意味でした。「しあい」も「しあわせ」もあくまで受け身の対応力なのです。
「しあわせだなあ」というのは、思わぬことが起こったけれど、なんとか仕合わせることができてよかった、ということ。自分の意志で事前に立てる計画とは無縁の世界、完全に受け身の結果なのです。

『荘子』(p42)

 

関連:http://hideasasu.hatenablog.com/entry/2013/10/01/174051