ニーチェ

論理学者の迷信について、わたしはあるちょっとした単純な事実を、何度でも飽きることなく強調したいのだ。迷信深い論理学者たちはこれを認めようとしないのだが。――それは思想というものは、「それ」が欲するときだけにわたしたちを訪れるのであり、「われ」が欲するときに訪れるのではないということだ。だから主語「われ」が述語「考える」の条件であると主張するのは、事態を偽造していることになる。〈それ〉(エス)が考えるのである。*1そしてこの「エス」が、あの昔から有名な「われ」であると主張するのは、控え目にいっても一つの仮説に、一つの主張にすぎないのだし、何よりも「直接的な確実性」などではないのである。
さらに言えば、この「〈エス〉が考える」さえも言い過ぎなのだ。この「エス」はすでに、思考過程を解釈したものであり、思考過程そのものに含まれたものではない。ここでは文法の習慣にしたがって、「思考とは一つの活動である。すべての活動にはそれを行う主体が存在する、だから――」と推論を行っているのである。

『善悪の彼岸』(p.51-52)

強調原文

*1:フロイトの無意識の考え方が、ニーチェのこの「エス」の概念に強い影響をうけたのは、フロイト自身が認めていることである。フロイトは「ニーチェは、われわれのありかたにおいて非人称的なもの、いわば自然必然的なものを〈エス〉という文法的な表現で呼ぶのをつねとしていた」と語っている。『自我論集』220ページ参照。」