伊藤剛

この世に二人として同じ人間はおらず、人生の中で同じ状況は二度と訪れない。その意味では、同一性は表面的・近似的なものにすぎず、単なる「仮象」つまり見せかけである。しかしこの同一性は、対象の側に宿るのではなく、対象を把握しようとする思考それ自体のうちに存する。したがってこの仮象は不可避である。思考することは同一化にならざるをえず、同一化を抜きにして思考することは不可能である。たとえば、眼前にある一個の果実を「リンゴである」と規定することは、その一個と他の「個体」との差異を捨象し、この具体的な対象をリンゴという抽象的な概念の下に包摂することであり、概念と対象との同一性(一致)をしるしづけることである。すなわち、対象を概念へと同一化することである。同一化とは、異質かつ多様な形で与えられた、「他なるもの」を、思考が自らにとって望ましい、把握しやすい形へと改変することを意味する。言い換えれば、思考が他なるものを対象化し概念規定することによって、領有化する作用を意味する。「判断の遂行に適合しないもの」を「抹殺」するという仕方で、思考は対象に「暴力(Gewalt)」を行使している(283頁)*1。これは、思考が対象に概念との同一性を強制することに他ならない。

『現代哲学の名著』(p.215-216)

 

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