マイケル・サンデル

成功している人びとは、自分の成功がこうした偶然性の影響を受けていることを見逃しがちだ。われわれの多くは幸いなことに、社会が高く評価する資質を何かしらは持っている。たとえば資本主義社会では起業家精神が、官僚主義社会では上司とぶつからずにうまくやっていく能力が役に立つ。大衆民主主義社会ではテレビ映りがよく、カットされた薄っぺらなニュース映像のなかでも巧みにメッセージを伝えられる能力が、訴訟社会ではロースクール法科大学院)の卒業資格と、論理的で合理的な思考能力が役に立つ。この種の能力はロースクールに入るためにも欠かせない。
社会がこうした資質を高く評価するのは、われわれの手柄ではない。このような才能を持っていても、もし現代のような技術の発達した訴訟社会ではなく、狩猟社会や戦国社会、身体能力や信仰深さが報われ、評価される社会に生きていたらどうだろう。どう考えても出世の見込みはないので、別の才能を伸ばすことにするかもしれない。このような社会では、われわれの価値や徳はいまよりも減ったことになるだろうか。
ロールズの答えはノーだ。もちろん、そうした社会ではいまほどの報酬は得られないかもしれない。しかし得る権利のあるものが少ないからといって、われわれの価値が他者より劣るわけではないし、他者より利益を得るに値しないわけでもない。現代の社会では認められない人、いまの社会がたまたま報いる才能を持たない人にも同じことが言える。
つまりこんにちの社会で、自分の才能から利益を得る権利を与えられているからと言って、自分の得意分野が評価してもらえる社会にいることを当然と思うのは誤りであり、うぬぼれでもあるのだ。

『これからの「正義」の話をしよう』(p.212-213)

 

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