飯島和樹

17世紀にルネ・デカルト『方法序説』のなかで述べた、「人間を自動機械から区別するのは、人の創造的な言語使用である」という考え方は、いまだに(残念ながら)有効だ。

 

人間の言語能力は、有限な要素から、無限の新たな文を生み出すことを可能にするものであり、しかもそうした発話は、状況に縛られたものではないにもかかわらず、状況に対して適切であるという特質をもっている。

 

実際、このページのいくつもの文が、初めて目にしたものであるにもかかわらず理解ができる(そう願っている)。その事実に、まずは驚いてみることが大切だ。「創造」とは、特殊な努力によって到達されるべきものであるかのように語られがちではあるが、実は誰もが、ごく日常的に、成し遂げているものでもあるのだ。言語能力に目を向けることは、「創造性」という概念を理解し、新たな創造へと向かううえでは不可欠だ。

かつて、ガリレオ・ガリレイ『天文対話』のなかで、登場人物サルヴィアチに以下のように語らせた。

 

「理解するということには二様、内包的か外延的かのどちらかの意味にとることができます。外延的、すなわち無限に多数ある知られるべきことに関しては、人間の理解力は、たとえ千の命題を理解したとしても、無です。というのは千も無限に対しては零同様ですから」

 

世界にあふれる「無限のデータ」に溺れるのではなく、それらを生み出す心/脳の「有限な手続き」を明確にする。すなわち、内包的な理解を得ること、それが、言語を根源から理解するためには必須なのだ。ガリレオが、かつて、物理学において試みたように。

実は、人間の心的能力には、言語に限られず、階層構造が豊穣に見出される。数の概念、音楽、他者の心の内容を推察する能力、道徳といったものも、言語と類似した階層構造を備えていることが、多くの研究者によって指摘されている。進化生物学者 W・ティカムサ・フィッチは、人間は樹構造をあらゆる心の領域に繁茂させる特殊な性癖をもつ「デンドロフィリア」(樹愛好者)とでも呼ぶべき種であると述べている。

ぼくたちの創造的な〈言語能力〉にこそ、イノヴェイションを生み出す鍵がある


関連:http://hideasasu.hatenablog.com/entry/2013/08/24/154453
http://hideasasu.hatenablog.com/entry/2013/12/31/204850

 

参考:内包と外延 - Wikipedia