ニーチェ

苦悩を求める欲望。――みながみな退屈に耐えられず自分自身に我慢できなくなっている行く百万という若いヨーロッパ人を、たえずくすぐったり刺戟したりするところの、何かをしたいというあの欲望のことに考えおよぶとき、――自分たちの苦悩から行動や行為のためのもっともらしい理由を取って来ようとして、何かに悩もうとする欲望が、彼らの内にあるに相違ないと、私は思う。困窮が必要なのだ! だから政治家たちはわめき立てるし、だからまた多数の偽った架空の誇張された、ありとあらゆる階級の「困窮状態」といったものと、それを喜んで信じようとする盲目的な気構えとが、つくりだされるのだ。こうした若者たちは、外から――幸福なんかではなく――むしろ不幸が訪れるか出現するようにと、熱望する。

 『悦ばしき知識』

ドストエフスキー

それにしても諸君は、ただ正常で、肯定的なもの、つまりは泰平無事だけが人間にとって有利であるなどと、どうしてまたそれほど頑固に、いや誇らしげに確信しておられるのか? いったい理性は利害の判断を誤ることがないのか? ひょっとして、人間が愛するのは、泰平無事だけではないかもしれないではないか? 人間が苦痛をも同程度に愛することだって、ありうるわけだ。いや、人間がときとして、おそろしいほど苦痛を愛し、夢中にさえなることがあるのも、まちがいなく事実である。

ぼくの確信によれば、人間は真の苦悩、つまり破壊と混沌をけっして拒まぬものである。苦悩こそ、まさしく自意識の第一原因にほかならないのだ。ぼくは最初のほうで、自意識は、ぼくの考えでは、人間にとって最大の不幸だ、などと説いたが、しかしぼくは、人間がそれを愛しており、いかなる満足にもそれを見変えないだろうことを知っている。自意識は、たとえば、二二が四などよりは、かぎりもなく高尚なものである。二二が四ときたら、むろんのこと、あとにはもう何も残らない。することがなくなるだけではなく、知ることさえなくなってしまう。そのときにできることといったら、せいぜい自分の五感に 栓をして、自己観照にふけることくらいだろう。ところが、自意識が一枚かんでくると、なるほど結果は同じで、やはり何もすることがなくなってしまうにして も、しかし、すくなくとも、ときどきは自分で自分を鞭打つぐらいのことはできるわけで、これでもやはり多少は救いになるのである。なんとも消極的な話だ が、それでも、何もないよりはましというわけだ。

地下室の手記

 

関連:http://hideasasu.hatenablog.com/entry/2014/05/19/051950

國分功一郎

苦しむことはもちろん苦しい。しかし、自分を行為に駆り立ててくれる動機がないこと、それはもっと苦しいのだ。何をしてよいのかわからないというこの退屈の苦しみ。それから逃れるためであれば、外から与えられる負荷や苦しみなどものの数ではない。自分が行動へと移るための理由を与えてもらうためならば、人は喜んで苦しむ。

『暇と退屈の倫理学』

※太字=原文傍点

デイヴィッド・J・リンデン

快はたしかに人間の心の動きの指針となり、美徳へも悪徳へも導いてくれる。痛みも同じだ。しかし、痛みと快は一本の棒の両端ではない。(…)愛の反対が憎しみではなく無関心であるのと同じように、快の反対は痛みではなく倦怠、つまり感覚と経験への興味の欠如なのである。
快感と痛みが同時に感受されうるということは、SM好きでなくともわかる。(…)認知神経科学の言葉遣いで言うと、快感も、痛みも、共にサリエンス(顕現性)を示すということになる。つまり、それは潜在的に重要な経験であって、注意を向けるに値するということだ。情動とはサリエンスの通貨である。多幸感や愛のようなポジティブな情動も、恐怖や怒りや嫌悪のようなネガティブな感情も、どちらも、それは無視してはならない出来事だということを告げるものなのだ。

『快感回路』

 

関連:http://hideasasu.hatenablog.com/entry/20130315/p1

http://hideasasu.hatenablog.com/entry/2015/03/02/074158