小林秀雄

間違ってばかりいる大衆の小さな意識的な判断などは、彼には問題ではなかった。大衆の広大な無意識界を捕らえて、これを動かすのが問題であった。人間は侮蔑されたら怒るものだ、などと考えているのは浅薄な心理学に過ぎぬ。その点、個人の心理も群集の心理も変りはしない。本当を言えば、大衆は侮蔑されたがっている。支配されたがっている。獣物達にとって、他に勝とうとする邪念ほど強いものはない。それなら、勝つ見込みのある者に、どうして屈従し見方しない筈があるか。大衆は理論を好まぬ。自由はもっと嫌いだ。何も彼も君自身の自由な判断、自由な選択にまかすと言われれば、そんな厄介な重荷に誰が堪えられよう。ヒットラーは、この根本問題で、ドストエフスキイが「カラマーゾフの兄弟」で描いた、あの有名な「大審問官」という悪魔と全く見解を同じくする。言葉まで同じなのである。同じように孤独で、合理的で、狂信的で、不屈不撓であった。

大衆は議論を好まぬ。ドイツのマルクシズムの弱点は、それを見損っている処にある。無邪気な客観主義は、新しい理論を生み出すに過ぎず、人心の扉を開けて、そこに眠っている権力への渇望に火をつける事を知らぬ。マルクシズムの革命の成功者は、科学的教養によって成功したのではない。大衆のうちにある永遠の欲望や野心、怨恨、不平、羨望に火を附ける事によってである。これらは一階級の弱点ではない。人間の弱点だ。問題は弱点の濃厚になっている場所を捜す事だ。ドイツ共産党は、この利用すべき原動力を忘れている。

(「ヒットラーと悪魔」)


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