小林秀雄

ランボオという奇怪なマテリアリストは、主観的なものに何んの信も置かなかった。彼には抒情詩というものは一向興味を惹かなかった。彼の全注意力は、客観物とこれに触れる僕等の感覚の尖端にいつも注がれていた。どの様な思想の形式も感情の動きも、自律自存の根拠を、何処にも持たぬ。それらの動きは、客観世界から、何等かの影像を借用して来なければ、現れ出る事がかなわぬ。と、言うのは、それらの運動が、客観世界の運動に連続している証拠である。ただ、この外部の自然の運動は、知性の機能によって非常によく整調された神経組織という、特殊な物質を通過するに際して、或る著しい変化を受ける。ランボオに言わせれば、「毒物」と化する。問題は入口にある、と彼は考える。もし、僕等の感覚が、既に、自然の運動の確率的平均しか受け付けない様に整備されているものならば、僕等の主観の奥の方を探ってみたところで何が得られよう。愛の観念、善の観念、等々、総じて僕等の心の内奥の囁きという様な考えは、ランボオには笑うべき空想と見えた。僕等は、ただ見なければならぬ、限度を超えて見なければならぬ。「あらゆる感覚の長い限りない、合理的な乱用」を試みねばならぬ。

空前の危地に追い込まれたこの天才の才能は、言語表現の驚くべき錯乱となって展開された。僕等は、「宗教の神秘を、自然の神秘を、死を、出生を、未来を、過去を、世の創成を、虚無を、発(あば)こう」と「自然の光の金色の火花を散らして生きる」或る存在に面接し、自分等の生活界の座標軸が突如として顚覆するのを感じ、或る本質的な無秩序と混沌との裡に投げ込まれる。

「ランボオⅢ」/『作家の顔』


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