小林秀雄

時間というものが、私達の認識の先天的形式であろうが、第四次元という世界の計量的性質であろうが、どうでもいい事だ。そういう曖昧さの少しもない、そう考えるより他にどうしようもない観念を、じっと黙って考えているなどという芸当は、誰にも出来ない。やがて私達は、どうでもいい事だと呟くだろう。ある種の観念があって、その合理的明瞭化の極まるところ、それは私達には、どうでもいいものと化する。これは、どうでもいい事ではあるまい。アウグスチヌスが、「告白」のなかで、時間の理解から時間の信仰に飛び移ったのは其処だ。彼が言ったように、時間は人間の霊魂の中から、いつまで経っても出て行く事は出来まい。
「失われし時を求めて」というアイロニイは、作者当人が一番よく知っていたであろう。万人にとっては、時は経つのかも知れないが、私達めいめいは、蟇口(がまぐち)でも落すような具合に時を紛失する。紛失する上手下手が即ち時そのものだ。そして、どうやら上手に失った過去とは、上手に得る未来の事らしい。

(「秋」/小林秀雄『Xへの手紙・私小説論』89項)