夏目漱石

「僕は死んだ神より生きた人間の方が好きだ」

兄さんはこう云うのです。(中略)

「車夫でも、立ん坊でも、泥棒でも、僕が難有(ありがた)いと思う刹那の顔、即ち神じゃないか。山でも川でも海でも、僕が崇高だと感ずる瞬間の自然、取りも直さず神じゃないか。その外にどんな神がある」

夏目漱石『行人』348項)

「僕は明かに絶対の境地を認めている。然し僕の世界観が明かになればなる程、絶対は僕と離れてしまう。要するに僕は図を披いて地理を調査する人だったのだ。それでいて脚絆(きゃはん)を着けて山河を跋渉する実地の人と、同じ経験をしようと焦慮(あせ)り抜いているのだ。僕は迂闊なのだ。僕は矛盾なのだ。然し迂闊と知り矛盾と知りながら、依然として藻掻いている。僕は馬鹿だ。人間としての君は遥に僕よりも偉大だ」

(同前372〜373項)