芥川龍之介

兎に角宿命を信ずれば、罪悪なるものの存在しない為に懲罰と云う意味も失われるから、罪人に対する我我の態度は寛大になるのに相違ない。同時に又自由意志を信ずれば責任の観念を生ずる為に、良心の麻痺を免れるから、我我自身に対する我我の態度は厳粛になるのに相違ない。ではいずれに従おうとするのか?
わたしは恬然と答えたい。半ばは自由意志を信じ、半ばは宿命を信ずべきである。或は半ばは自由意志を疑い、半ばは宿命を疑うべきである。なぜと云えば我我は我我に負わされた宿命により、我我の妻を娶《めと》ったではないか? 同時に又我我は我我に恵まれた自由意志により、必ずしも妻の注文通り、羽織や帯を買ってやらぬではないか?
自由意志と宿命とに関らず、神と悪魔、美と醜、勇敢と怯懦《きょうだ》、理性と信仰、――その他あらゆる天秤の両端にはこう云う態度をとるべきである。古人はこの態度を中庸と呼んだ。中庸とは英吉利語《イギリスご》の good sense である。わたしの信ずるところによれば、グッドセンスを待たない限り、如何なる幸福も得ることは出来ない。もしそれでも得られるとすれば、炎天に炭火を擁したり、大寒に団扇を揮《ふる》ったりする痩せ我慢の幸福ばかりである。

(「自由意志と宿命と」/『侏儒の言葉』)

完全なるユウトピアの生れない所以は大体下の通りである。――人間性そのものを変えないとすれば、完全なるユウトピアの生まれる筈はない。人間性そのものを変えるとすれば、完全なるユウトピアと思ったものも忽ち不完全に感ぜられてしまう。

(「ユウトピア」/同前) 

我々はしたいことの出来るものではない。只出来ることをするものである。これは我我個人ばかりではない。我我の社会も同じことである。恐らくは神も希望通りにこの世界を造ることは出来なかったであろう。

(「可能」/同前)